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ボンクラ

  無理をして大学に進学した。一浪して、当時好きだった女の子に誘われて予備校に通い、志望校(一番近い国公立)に前・後期試験合わせて4回落ちて、中期試験のある北関東の大学に何とか引っかかり、大量の借金をして、そこに転がり込んだ。

  他にやりたいことがなかったわけではない。明確にあった。しかし、それは専門的な技術が必要なもので、専門的な技術が学べるところとなると、いわゆる専門学校がその受け皿になるのだが、当時、専門学校というと、ボンクラで金ばかりかかるイメージがあったためか、そこはお気に召さない両親に猛反対されて、言われるがまま、淡々と、ボクはすべてを諦めてしまった。ちなみに両親は高卒である。

  諦念。それがボクを形造る核となっている。何も手につかない。何も実にならない。強迫的なまでに、何もかも、無駄だと思う。結果、虚無な人間が大量の借金を抱えているだけの状態ができあがった。今、その核は腐り、後悔という名の異臭を放っている。生きているだけで臭い。自殺したい。

  やりたいことをやるべきだ、夢があり、若く、体力のあるときに、しかるべき無理をするべきだ、と言いたい。でも、それは一方で、手足のない人間にシャキシャキ歩けと言っているようなものだ、ということも、理解している。悲しい。5億円欲しい。

  教訓。親になる人間は、子供に夢をみてはいけない。

ビビンバ

  ここ数日、すき家に通っている。

  職を変え、仕事先が人気のない海岸線から国道沿いに移ったおかげで、行動の選択肢が増えた。とはいえ、仕事が終わる頃には0時を回っているので、開いている店といえば、すき家かコンビニしかない。

  話は変わるが、ボクはあまり家族と食事をしない。父が亭主関白な人間(こういう人間は滅びろと思う)で、母がこき使われる様を見たくないし、食べ方も汚い、いわゆるクチャラであり、気になってしまって食事に集中できない。そんなわけで、ボクの食事は、主に残飯、コンビニの冷凍食品類、外食になる。

  すき家の話である。つまりは、ねぎ玉豚丼である。牛丼ではなく、豚丼。これがおいしい。牛丼にはない辛みが効いていて、それが卵と混ざると絶妙な味に仕上がる。ちなみに、大盛りだけ、豚丼の方が牛丼よりも10円高く設定されている。なぜなのか。しかし、そんなことはあまり気にならない。空腹なので。そして驚いたことに、注文してから1分も経たないうちに用意される。深夜で客が少ないこともあるが、これには文明を感じざるを得ない。近未来の到達である。

  今日は豚丼ができないと言われたので、そういうケースもあるのかと思いつつ、牛ビビンバ丼を注文した。客がいなかったので、店員が目を離した隙に、具を思い切り混ぜた。こういうことは、人前ではなかなかできない。そういう食べ物かも知れないが、そういう話ではない。ボクに父の食べ方を非難する筋合いなどないのかも知れない。グチャグチャに混ざったビビンバ丼をみながら、そんなことは、微塵も考えなかった。空腹なので。

ツジツマ

  言い訳ばかり考えている。物事の辻褄を合わせて、肌触りのいい過去にしようとしている。そういう過程を経て、どうしてもうまくはまらないピースが出てこない限り、ボクは反省しなくなってしまった。

  幸か不幸か、ボクの手元には都合のいい失敗ばかりが揃っている。ボクは難なく辻褄を合わせる。誰が見ても納得のいく過去を作り上げる。そうすることで忘れられる。綺麗であればあるほど、安心して、忘れることができる。

  反省するよりも忘れる方が楽だ。もう何年もこんな風にして生きている。

プリンス

  亀梨和也について語る、なぜなら好きだから。

  『アナザースカイ』のVTRの中で、彼は自らの芸能人生を振り返り次のように述べている。

  努力したとは思っていない。カッコつけたいだけ。カッコいい自分でいたい。だから、そのためにがんばるのは努力じゃない。

  このスタンスはボクの青春期のリアリティとシンクロしている。ちなみに、ボクらの青春期と亀梨和也といえば、TVドラマ『野ブタ。をプロデュース』だが、そこでもこのスタンスは通底していた。そこでは、亀梨演じる主人公・桐谷修二が、現実の自分とイメージとしての自分、すなわち、素の自分と"カッコつけ"ている桐谷修二のイメージとの乖離に苦悩していく様が描かれていく。

  イメージの時代である。象徴性が緩みきった世界で、ミニマムな自分らしさを求めた時代。ボクらは無数のイメージに囲まれながら青春期を過ごしてきた。メールアドレス、腰パン、スカート丈、画一的な制服の下の色とりどりのカーディガン、ケータイストラップ、シャープペンシル、弦の太さ、髪型、そのアシメ具合、ヘアワックス、制汗剤……。それらを、時には合わせ、時にはそらし、ズラしていく、諸々の"カッコつけ"の所作。そこには偉大な何者かへの憧憬などなかった。カッコイイか、ダサいか、カワイイか、キモいか、そんなイメージのグラデーションの中でボクらを突き動かしたのは、密かに好意を寄せるあの子や、敬愛する先輩、気の置けない友人、雑誌の切り抜きや、物語の登場人物などが纏うイメージへと、自らをマイナーチェンジしていく欲望だけだった。

  亀梨和也も、おそらくはそのような連中の一人だ。

  彼はボクらの少し前を歩き、そして振り返る。渾身のひと癖が付与されたターンで。"カッコつけ"られたそのターンは、ボクらの心を魅了して、なんだか少し懐かしくさせる。 彼はまさしく、イメージの時代が生んだプリンスなのだ。

  ボクもイケメンになりたい。

シマウマ

  ブログをはじめてしまった。ツイッターで事足りる人生であるにも関わらず。人生の無意味さを素直に受け入れるのは、案外難しいのかもしれない。

  ボクには、これからの日々を少しでも意味のあるものだと信じて、何らかの価値のあるものだと騙していく作業が待っている。憂鬱かもしれない。

  人間はたまに、わざわざ憂鬱なことをしてしまう。犬は多分しない。猫は絶対にしない。シマウマなんかは、稀にしそうである。こういうしょーもないジョークも書いていかなければならない。別にそんなことをする必要はないのだけれど、ボクにもサービス精神があるので。

  記憶は歪な結晶になる。ここがその証左だ。